天皇陛下に献納した”北限のりんご”に代わる玉ねぎ、上湧別農業に起きた出来事とは

かつて上湧別地域を車で走ると、りんごの木が道なりに植えられていました。

湧別の子供たちは気づかれないだろうと、歩道の脇からりんごをひとつもぎ取り食べていたそうです。

今も9月下旬になると、数本の木から真っ赤に色づいたりんごが顔を覗かせます。

以前のようにりんご栽培を仕事とすることができなくなった上湧別地域は、土地に合った玉ねぎの栽培に移行していきます。

湧別農業の歴史を振り返ってみましょう。

上湧別で栄えたりんご栽培

大正時代に入り、湧別りんごの栽培が本格的にスタート

明治27年のこと、すでに上湧別地域には数本のりんごの木が植えられていました。

それには諸説がありますが、浜湧別に上陸した屯田兵が開拓する際に成功させた りんごの木だったと言われています。

明治32年に中隊本部が苗木を斡旋したところ、5年ほど経つと結実。

その木がすくすく育ち、実のなりも良好なことから、本格的にりんご栽培の研究が開始。大正6年には上湧別地域で、リンゴの技術員による栽培の指導が始まりました。

町立郷土博物館 ふるさと館JRY資料(指導の様子)

その翌年からは、よりりんごの質を高めるため、部落ごとにりんご品評会が開催されました。

北限のリンゴとして天皇陛下に献納するほどに

大正10年には、上湧別で栽培されるりんごが「湧別名産りんご」と呼ばれ、15年には北海道庁による栽培地実地指導講演会が行われるようになりました。

つまり、大正時代には湧別のりんごが高く評価されるようになっていたのです。

評価に自信をつけた上湧別地域の人々は、大正11年に行われた陸軍特別大演習の時に、天皇陛下に「北限のりんご」として献納したのち、

その2年後に北海道園芸会主催の第六回園芸作物展覧会へ”旭”という品種を出品したところ1等を獲得したのが、湧別町りんご栽培の最盛期です。

りんご栽培が途絶えた原因は、猛威をふるった腐らん病

成功したと思われていた湧別名産りんごは、たちまち姿を消していきました。

りんごが苦労なく作れるようになると、形や色が綺麗なものを消費者が求めるようになりました。

それに努力しているうち、春先から初夏にかけて現れるりんごの病気、”腐らん病”が上湧別地域で発生し、各所の農家に被害が拡大したのです。

腐らん病とは?

りんごの木の表面が暗褐色、不整形、軟腐状になること。その部分からはアルコール臭が発せられ、黒色アワツブ状の柄子殻が現れます。最終的にはひも状の胞子角が噴出していきます。つまり、りんごの木の幹や枝が腐敗してしまうということ。これは近隣の園地にも被害が拡大する恐れがある病気です。

当時は腐らん病への特効薬がなく、また、盛り返しても消費者の求めるりんごを作ることと労力の折り合いがつかず、次々と栽培を中止させられていったのです。

今、上湧別地域にあるりんごの木は希少なもの

りんごが実り始める9月の末、かつてりんご農家であった井上さんを訪ねました。井上さんが農家を経営してりんご栽培を行っていた時には、まだまだ上湧別地域各所で紅玉や国光などのりんごが作られていたと言います。

腐らん病が発生して次々とりんご農園がたたまれて行った時のことを伺うと、原因は腐らん病や消費者との折り合いだけではなかったと教えてくれました。

りんご栽培は手作業が多く、人手を要するのです。たとえば、実に日光が当たるように葉摘みをしたり、余分な実をとったり、ハックナインに関しては実を赤く日焼けさせるために袋がけも行います。

町立郷土博物館 ふるさと館JRY資料

それらの原因によって、上湧別町のほとんどの農家が小麦やビート、アスパラやブロッコリー、玉ねぎなどの栽培へと移行してしまったのです。井上さんも退職するまでに20年ほど玉ねぎ栽培を行ったと話します。

井上さんは平成27年に定年退職しましたが、今でもハックナインやつがる、旭などを継続して栽培しています。腐らん病を患った場合には、その箇所だけを取り除くということを繰り返して大切な歴史を残しています。

地域内には井上さんの他にあと2軒ほどりんごを栽培する農家があります。ですがどこも1人手作業なので収穫数は少なく、昔からの顔なじみに配るだけしかありません。

もし多くとれた時には、直売所に置かれているかもしれません。ほんの稀に。

町立郷土博物館 ふるさと館JRY資料

同行していただいた湧別町職員さんも、湧別町産のりんごが食べられることは滅多になく、秋に収穫してから 甘みが増す正月明けまで保存しておいたりんごが懐かしいと話します。

時期が空いた畑で始まっていた玉ねぎ栽培

上湧別振興会会長 横尾さんが営む玉ねぎ畑

りんご栽培が失敗に終わり、様々な作物栽培の上たどり着いた玉ねぎ栽培。

実はりんご栽培が盛んに行われていた場所から少し離れた北兵村で、りんご景気のときからすでに玉ねぎ研究が進んでいました。

りんご栽培に合わなかった北兵村で玉ねぎ作り

りんご景気が終わり、今では農業の主流となった玉ねぎについて上湧別玉葱振興会の会長である横尾俊雄さんからお話を伺いました。

屯田兵として入植した横尾さんの祖父は、中湧別で農業を始めました。2代目であるお父さんの時代から北兵村五の1に移り、ビートやアスパラ、米や玉ねぎを作っていたそうです。

北兵村の土質や石の大きさから見て、りんご栽培が合わなかったのか、この近辺でりんごが作られることはほとんどありませんでした。

玉葱振興会が発足したのはりんご最盛期のとき

まだまだりんご景気が続いている昭和32年のとき、北兵村はアスパラの興隆期に向かう時期でした。

ですが、アスパラガスを毎年度同じ畑で作ってしまうと、連作障害により立枯病や茎枯病などの糸状菌による病害を引き起こしてしまう可能性があります。

非効率的なアスパラの栽培に悩んでいたところ、昭和42年に玉ねぎ栽培が普及所から発案されました。早速昭和35年に玉ねぎ栽培に失敗した時の種と、北見で植えて余った種を使って試験的に栽培を始めました。

試験的な栽培で出来上がった玉ねぎは茎が太く、長く形の悪い玉ねぎを近所の人に買ってもらっていたと言います。

当時の農協は玉葱には冷たく、わずかな人だけが理解をしてくれたそうです。その人たちと先進地の北見市川東地区まで植付や苗引、農薬散布など見に行き、北見に負けない玉葱生産をしたいと皆で誓ったそうです。

昭和47年には上湧別玉葱振興会が発足。平成29年の段階で会長を務めるのは、今回お話を伺った横尾さんです。

大切にしたい地域のタカラ

地域に合う作物を作るための労力と時間、その困難を乗り越えた結果、今の産業につながっているんですね。

りんご最盛期の時に玉ねぎを先駆けて作っていた地域があったから、今では湧別で栽培する作物の中で最も多いのが玉ねぎになっています。

農業経営をやめた今でも手入れを怠らないりんご農家さん、

そのお話をこうして記事にできたことを嬉しく思います。

りんご栽培の歴史や屯田兵の歴史など、湧別町立郷土博物館 ふるさと館JRYでさらに深く学ぶことができます。

かつて使用していたりんご栽培の機器も展示しているので、時間の空いた時に見に行ってはいかがでしょうか。