石北線存続の危機に瀕した今知っておきたい「かぼちゃ陳情団」の取り組み

2016年7月29日、JR北海道が鉄道事業の見直しを打ち出しました。

石北線 新旭川-網走 234.0km

人口10万人都市の北見市などを結ぶ特急列車の運行線区であるが、老朽化した特急気動車の更新が課題となっている線区。また、大正元年に完成した女満別トンネルに代表される約100年経過した老朽土木建造物が多く存在し、維持管理に苦慮している他、集中豪雨による土砂流入などの災害が頻繁に発生する線区。

石北線は輸送密度200人以上2,000人未満の線区で、国鉄時代であれば特定地方交通線に指定され原則廃止とされた線区ですが、特急列車が運行されていたり、観光路線として利用されているのも現状です。老朽土木建造物の更新も含めて安全な鉄道サービスを持続させるための費用が確保できていません。

-北海道旅客鉄道プレスリリース (2016年11月18日)

また、2017年3月には「現在の赤字額は年間35億円。今後、車両114億円、土木構築物57億円の莫大な経費がかかる見込みとなっている」と北海道クローズアップ(NHK札幌放送局)にて放送されていました。

突然 石北線報道に触れてしまいましたが、今回もオホタ編集長の佐久間茜華が”身近にあって”「知らなかった!」オホーツクの話をご紹介いたします。

 

石北線ってどこだっけ?

 

石北線とは「新旭川駅」と「網走駅」を結ぶ路線のこと

石北線は旭川市にある「新旭川駅」から網走市にある「網走駅」を結ぶJR北海道の鉄道路線のこと。旭川から北見、旭川地域を目指して「湧別線」と「網走本線」と「石北線」と3つのルートをつなぎ合わせてつくられたのが「石北本線」という路線です。

石北線が全線開通したのは1932年10月1日のこと。新旭川駅から北見を経由して網走駅まで、今まで8時間もの超長距離移動だったところ、およそ半分の時間に短縮されたことは、人の移動だけではなく物資の流通にも苦労していた人々にとって歓喜の出来事だったようです。

みなさんも一度は石北線に乗ってお出かけをしたことがあるのではないでしょうか?

 

ところで、「どうして遠軽でスイッチバックしてるの!?」

もう一度 石北本線のルートを地図で見てみてください。

遠軽駅の線形がスイッチバックなことに気がつきませんか?前後の向きを交互に変えて運行するスイッチバックですが、どうして「遠軽町」に設置されているのでしょうか?「まっすぐ行けばいいじゃない!」そう思ったことがある人は(筆者には見えませんが)挙手をお願いします。

実は、この「スイッチバック」が石北線開通の歴史と遠軽町が密接に関わりがあることを示しているのです。

それでは、これから石北線が開通する前の時代に遡ってみましょう。

 

敷設請願から全線開通までの22年間に何があったのか

「生活がまともにできないから鉄道を整備をして」15年間に及ぶ請願

石北線がなかった頃のこと。

遠軽町から旭川市まで行くには、名寄線を経由して8時間という超長距離移動が必要不可欠でした。それによって人の移動が容易にできないだけではなく、食料や生活物資などの輸送費が高く、他の地域よりも特に物価が高い状況にありました。さらに、この地域で栽培する農産物を都心へ輸送するにも困難で稼ぐこともままならなかったのです。

そこで関係するまちの村長、地域住民が鉄道敷設請願運動を明治43年に開始しました。

 

遠軽:「生活がまともにできないから、早急に鉄道を整備してほしい」

 

大正に入ると北海道の鉄道路線が函館・小樽・札幌・旭川とつながり、旭川から分岐して十勝・釧路方面、名寄・網走方面へ伸びていたところ、大正2年に滝川、富良野間が開通。それによって旭川の利用客が新路線に取られて激減しました。

 

旭川:「路線が増えて人が来なくなったから、遠軽・北見地域とつないでほしい」

 

その2年後に危機感を払拭するため「旭川と北見をつなぐ石北線開発期成同盟」を立ち上げ、その4年後には名寄経由で旭川とつながった遠軽村と「旭川と遠軽をつなぐ鉄道速成期成会」を結成。

101人もの名前を連ねた請願書を持って帝国議会、鉄道院に陳情を重ねた結果、その年の末に石狩ルベシベ線から遠軽に決定し、翌年の大正9年には石北線上川・遠軽間が承認を受けました。そして早くもその2年後にはルベシベ線(新旭川・上川間)が開通したのです!

「あとの少し辛抱すれば石北線が整備される!」そう、まち全体が歓喜の声をあげていたところ、

 

突然、石北線の建設計画がストップ

その原因は大正12年9月1日11時58分32秒に起きた出来事、

関東大震災です。

翌年、政府は関東大震災の災害復旧と第一次世界大戦の不況を鑑み、財政緊縮策をとると発表。そのなかのひとつに「石北線敷設延期」もありました。

 

「米すらも食べれず、かぼちゃしか腹に入らない。このままじゃ餓死してしまう」

遠軽・北見地方の人たちにとって石北線開通は普通に暮らすためになんとしてでも叶えたいことで、「仕方がない」と思うことができない状況でした。そこで、工事延期の知らせを受けた遠軽村は国会に直接請願することを決めます。

 

 

ですが、国会まで行くには部落のお金では足りず、1人50円という大きな自己負担が発生することになります。当時の”50円”というのは小学校教員初任給にあたる金額で、家計から捻出するのは楽ではありませんでしたが、それでも「行かなければ餓死してしまう」と遠軽、白滝、丸瀬布から52名もの農民が集まり陳情団が結成されました。

 

 

 

この時はまだ関東大震災から1年しか経過しておらず、東京には家も仕事もない人が溢れかえっていたため警視庁から陳情を止めるようにと差し止めがありましたが、それはすでに遠軽地域の陳情団が出発した後でした。

陳情団の52名は経費を削減するためになるべくお金がかからない寝床を探していましたが、警視庁の意向で断られて止むを得ず新宿の安い宿に泊まり、食料は貨物列車に乗せて持ってきた遠軽で栽培しているかぼちゃを宿で煮て食べました。もちろん国会に陳情する際に自分たちの昼食として持っていくお弁当も、宿で煮たかぼちゃです。

毎日国会の控え室でかぼちゃを食べる様子がとても異様な光景だったために多くのマスコミに「かぼちゃ団体の陳情」と取り上げられ、同情の姿として全国から励ましに来る人が多くいたのです。

 

「鉄道が建設されなければ米すらも食べられず、かぼちゃしか腹に入らない。このままじゃ遠軽地域の人々は餓死してしまう。助けてほしい」

 

52人の男たちが泣きながら政府に訴えかけると警備についていた11人の警官も泣き出し、翌日の新聞で大きく取り上げられました。陳情を繰り返して10日ほど、鉄道省で仙石鉄道大臣から「前向きに工事計画を再検討します」と嬉しい言葉を聞くことができ、一行は帰路につきました。

 

陳情から8年後、涙の石北線全線開通

陳情団の団長は帰村してから石北線が全線開通するまで、毎年関係大臣にかぼちゃを1俵ずつ送りました。それは、かぼちゃ団体の想い、遠軽地域の現状を忘れられないようにするためです。

陳情の翌年である大正14年9月、政府が遠軽・丸瀬布間の鉄道建設を認可。11月から石北線工事が着工され、昭和2年に遠軽・丸瀬布間が開通。その2年後には丸瀬布・下白滝間、下白滝・白滝間、上川・中越間が開通。団長がかぼちゃを送り続けている間にも着々と石北線の工事は進められました。

 

そして昭和7年

ついに・・・石北線が全線開通!!!

請願から22年間、やっと実を結ぶことができたのです。

 

〜新聞記事〜

 

筆者から

今回もオホタをお読みいただきありがとうございました。

石北線が無事に全線開通し、遠軽地域、オホーツクの人々が食料や生活必需品を手に入れられるようになったのは「かぼちゃ団体」による厳しい苦労があったからだったのですね。

遠軽地域の人々の涙と苦労を忘れずに、そして石北線の大切さを忘れずに、鉄道事業と地域の密接な関わりを考えていきたいものです。

そして、地域のことを考える時にはまずはその事柄の歴史を遡り、より具体的な取り組むべき事業の組み立てを行っていきたいですね。

継続する地域を目指し、これからもオホタは地域の歴史を振り返りながらオホーツクをつないでゆきます。


 

今回取材・資料の開示にご協力いただいたのは、遠軽町役場の方々、そして元遠軽高校の教論で、現在は遠軽町郷土館に勤める”杉山先生”です。

遠軽町役場の皆様、杉山先生、ありがとうございました!

杉山先生